About
Frank Lloyd Wrightのバイオグラフィー
バイオグラフィーと功績
フランク・ロイド・ライトは、宣教師であり音楽師でもあった父ウィリアム・ラッセル・キャリー・ライトと母アンナ・ロイド・ジョーンズ・ライトの第一子として、ウィスコンシン州リッチランド・センターに生まれた。
ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴに移り設計の仕事を開始。シカゴで活躍した建築家ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが設立したアドラー=サリヴァン事務所にてさらに経験を積み、その後独立。ライトは約70年ものキャリアを持ち、20世紀において最も多作で時代の先鋭となる作品を残す巨匠建築家の1人として活躍した。
初期:プレーリー住宅
独立後の1899年から1910年まで住宅を中心として数々の建築を手がけた。それらは「プレーリースタイル」として知られるようになった。
「プレーリーハウス」は、水平線を強調するために高さが低く、水平に長い、オープンな構造の建物。このモデルを築くことにより、ライトはアメリカの広い敷地を生かした建築スタイルを確立した。
プレーリースタイルの家では、開放感とコミュニティを強調するために、内壁は最小化され、住む人と外部の関係をより親密なものに仕上げ、景観と建物は、より調和のとれた1つとなった。
中期:不遇の時期
1909年の不倫の果てのヨーロッパへの逃避行、および家族や弟子が惨殺された事件に巻き込まれるなど度重なる不幸に見舞われ、ライトはこれらの事件によって名声が地に落ち、設計依頼の激減する不遇の時期を過ごした。
一部、日本の帝国ホテルの設計依頼で1913年に来日するなど日本での活動を行っていた。(ライトが設計を手がけた東京・目白の自由学園明日館は1921年建設)
後期:ユーソニアン住宅
1929年の米国およびその他の国々を苦しめた金融危機・世界大恐慌を受け、ライトは手頃な価格の住宅に取り組み始めた。変化する経済や社会に適応するべく、住宅建設を単純化させるアプローチである。ライトは「ユーソニアン・ハウス」と名付けた新たな建設方式として考案し、と、これに則った工業化住宅を次々と設計した。これにより多様なクライアントの予算を反映したバリエーションを展開し、アメリカ人が手頃で楽しむことができる簡素化された美しい生活環境を提供した。
日本でのライトの功績
母国アメリカ以外で唯一彼の作品が現存する日本には彼の建築に心酔する数々の才能が生まれ、帝国ホテルの建築にチーフアシスタントとして従事した遠藤新や、その子である遠藤楽など正統の系譜を連ねている。 また、帝国ホテルの製図担当として来日したアントニン・レイモンドはそのまま日本で独立、建築事務所を主宰し、日本建築を牽引する優れた弟子たちを育てるとともに、モダニズム建築を世界に発信している。
年表
Year | Biography | Works |
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1867 | 6月8日、宣教師であり音楽師でもあった父ウィリアム・ラッセル・キャリー・ライトと母アンナ・ロイド・ジョーンズ・ライトの第一子として、ウィスコンシン州リッチランド・センターに生まれる。 | |
1887 | シカゴにてジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所に製図工としての職を得る。 その後、アドラー&サリヴァンの建築事務所で働くようになる。 |
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1889 | 結婚を機に自邸を建築。 | 自邸(イリノイ州オークパーク) |
1890 | アドラー&サリヴァン事務所で扱う住宅設計をすべて担当する。 | |
1893 | イリノイ州シカゴで建築事務所を開設。 | ウィンズロー邸(イリノイ州リバーフォレスト) |
1894 | フランク・ロイド・ライトの作品に関する最初の展示会がシカゴ建築クラブで開催される。 | |
1902 | ウィリッツ邸(イリノイ州ハイランドパーク) ハートレー邸(イリノイ州オークパーク) |
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1903 | ラーキンビル(ニューヨーク州バッファロー) | |
1905 | ライト夫妻が日本を初めて訪れる。 フランク・ロイド・ライトは日本の美術品、特に版画の美しさに魅せられる。 |
ユニティ教会(イリノイ州オークパーク) |
1906 | ロビー邸(イリノイ州シカゴ) | |
1907 | クーンレー邸(イリノイ州リバーサイド) ハント邸(イリノイ州ラグランジュ) |
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1909 | 作品集出版の準備のためヨーロッパへ向かう。 | |
1910 | ベルリンのヴァスムート社より作品集が出版され、即座にドイツとオランダの建築家に大 きな影響を与えることとなる。 | |
1911 | 帰国後ウィスコンシ州スプリンググリーン近くに新しい家とスタジオであるタリアセンの建設を開始。 | タリアセン(ウィスコンシン州スプリンググリーン) |
1913 | 帝国ホテルの設計依頼の件で、再来日。 | |
1915 | 帝国ホテルの設計第一案が完成。 | |
1917 | 林愛作邸(東京都世田谷区) | |
1918 | 帝国ホテルの絨毯を探すため中国へ旅行し、学者のク・フン・ミンに会い、北京の建築物を見学。 | 山邑太左衛門邸(兵庫県芦屋市) ※国指定重要文化財(現ヨドコウ迎賓館) |
1921 | 自由学園明日館(東京都豊島区) ※国指定重要文化財 |
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1923 | 9月、関東大震災が東京を破壊するが帝国ホテルは残る。 | 帝国ホテル(東京都千代田区) ※現在愛知県犬山市博物館明治村に中央玄関を移築 |
1927 | 「建築のために」という見出しでアーキテクチャルレコード誌に14編の記事を1927年から1928年の間執筆。 ベルギー王室美術協会名誉会員に選ばれる。 |
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1929 | ベルリンの学士院名誉会員になる。 | |
1930-31 | 大規模な展示がアメリカとヨーロッパ(ドイツ、オランダ、ベルギー)で行われる。 | |
1932 | タリアセン・フェローシップを創設。 『自伝』、『消滅する都市』を出版。 フランク・ロイド・ライトの作品が含まれた『インターナショナル・スタイル』展覧会がニューヨーク近代美術館で開かれる。 ブラジル、ナショナルアカデミー名誉会員。 |
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1936 | カウフマン邸<落水荘>(ペンシルバニア州ミルラン) ジェイコブス邸Ⅰ(ウィスコンシン州マディソン) |
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1937 | 世界建築家会議参加のためソビエトへ旅行。 ベーカー・ブラウネルとの共著『建築と現代生活』が出版。 |
タリアセン・ウエスト(アリゾナ州スコッツデール) |
1938 | 『アーキテクチャル・フォーラム』誌1月号がフランク・ロイド・ライト特集を組む。 フランク・ロイド・ライト、タイム誌の表紙を飾る。 |
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1939 | ロンドンにてサルブレーブ・メイナー・ボードでの連続講演を行う。 この講演は後に『有機的建築』として出版されることとなる。 ウェズリアン大学名誉芸術修士。 |
スタージス邸(カリフォルニア州ロサンゼルス) |
1940 | ニューヨークの近代美術館で大規模な個展『フランク・ロイド・ライトの作品』が開催される。 | |
1941 | 英国王位建築家協会名誉会員。 King George VIより英国建築ロイヤルゴールドメダル授与。 フレデリック・グートハイムとの共著『建築について』出版。 |
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1943-59 | グッゲンハイム美術館(ニューヨーク州ニューヨーク) | |
1944 | ジェイコブス邸Ⅱ(ウィスコンシン州ミドルトン) | |
1945 | 『民主主義が確立するとき』を出版。 | |
1947 | プリンストン大学名誉芸術博士。 | |
1949 | アメリカ学士院名誉会員。 AIAゴールドメダル。 AIAフィラデルフィア支部ゴールドメダル。 ピーター・クーバー芸術振興賞。 |
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1950 | フロリダ・サザンカレッジ名誉博士。 | |
1951 | 大規模な展示『生きている建築の60年』をフィラデルフィアのギンベルデパートを皮切りにフィレンツェのパラッツォ・ストロッツで開催。 フィレンツェ市よりパラッツォ・ベッキオにて、メディチメダルを授与される。 イタリアよりヴェニス総督邸にてStar of Solidarityを授与される。 |
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1953 | ストックホルム王立芸術学士院名誉会員。 フィンランドナショナルアカデミー名誉会員。 『建築の将来』を出版。 |
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1954 | フィラデルフィア・フランクリン協会から表彰状とブラウンメダルが授与される。 イェール大学芸術名誉博士。 『ナチュラルハウス』出版。 |
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1955 | ウィスコンシン大学より芸術名誉博士。ドイツダルムシュタット工業大学名誉博士。 スイスチューリッヒ工業大学名誉博士。 エドガー・カウフマン編集『アメリカンアーキテクチャー』出版。 |
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1956 | ウェールズ大学名誉博士。 『ストーリー・オブ・ザ・タワー』出版。シカゴのリチャード・デイリー市長は10月17日を「フランク・ロイド・ライト」の日にすることを宣言。 |
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1957 | 『テスタメント』出版。 文化センターデザインのためイラクバグダッドへ招待される。 |
マリン郡シビックセンター (カリフォルニア州サン・ラファエル) |
1958 | 『生きている都市』出版。 | |
1959 | 4月9日、アリゾナ州フェニックスにて逝去。 |