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シカゴ万博日本館と平等院鳳凰堂。ライトの自由学園明日館や帝国ホテルもそれがヒントだった
日本の浮世絵の熱心なコレクターとして知られるフランク・ロイド・ライト。ライトの作品には、日本の伝統建築からインスピレーションを受けたと思われるものがあります。ライトが受けた日本文化の影響を何回かに渡って紐解いてみましょう。今回は、平等院鳳凰堂を模したシカゴ万博の日本館「鳳凰殿」にスポットを当てます。
フランク・ロイド・ライトは、1887年にイリノイ州シカゴに移り、建築家としてのキャリアをスタートします。その6年後の1893年にはシカゴ万国博覧会が開催され、当時のアメリカ国民の約半数の2750万人が来場。日本が国を挙げて建設した日本館「鳳凰殿」を、ライトが間近に見ていたことは広く知られています。
シカゴ万博の鳳凰殿は、その名の通り京都宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を模した建築物です。1052年に藤原頼通によって開かれた平等院は、1994年に世界遺産に登録された「古都京都の文化財」の一つであり、唯一現存する鳳凰堂は国宝に指定されています。
平等院鳳凰堂の正面の中央から両翼が左右に伸びるデザインは、ミッドウェーガーデンズや帝国ホテル、自由学園明日館に共通するファサードです。「鳳凰殿」の日本の伝統的な建築技法は、柔軟で開放的な内部空間を持ち、周囲の自然環境と流動的に交わう構成。会場に並ぶ西洋建築物とは全く異なった鳳凰殿から、ライトはランドスケープとの連続性や「無駄の排除」といった日本建築の美意識に触発され、彼の後のデザインスタイルに大きな影響を与えました。
ミッドウェイガーデンズ(Midway Gardens 1914年オープン・1929年解体)は、シカゴのサウスサイドにあるハイドパーク周辺に建設された広大なヨーロッパ式のコンサートガーデン。テーブルと椅子で満たされた広いオープンエアの中央エリアは、ダンスやエンターテイメントのための屋内スペースのある石積みの3階建ての建物と、張り出し屋根のあるカンチレバー(片持ち梁)のバルコニーで囲まれていました。これは、浄土式庭園を望む平等院鳳凰堂の外観を想起させるデザインです。
ライトは、1880年代末から日本の浮世絵とその洗練された芸術表現を高く評価していました。彼は浮世絵のコレクターとして、ニューヨークの美術商店・山中商会にいた林愛作と知り合います。ライトは1905年に初めて日本に旅行し、数百枚の浮世絵を購入、翌年にはシカゴ美術館で開催された広重の世界初の回顧展の開催を手伝いました。
ライトは、1910年頃から大恐慌時代へと続く不遇の時代には、浮世絵のアートディーラーとして収入を得ていました。渋沢栄一の依頼で帝国ホテル支配人に就任した林愛作は、1916年にライトにホテル新館の設計を依頼します。そして1917年から1922年にかけて、帝国ホテルの設計プロジェクトで、東京でライトをサポートしていたチーフアシスタントが遠藤新です。
自由学園の創設者・羽仁夫妻は、女学校の創立を考え、校舎の設計を友人の遠藤新に依頼します。遠藤から2人に紹介されたライトは、女性のための教育理念に深く共感して、校舎建築を快諾。こうして1921年に完成したのが、東京都豊島区池袋に残る自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)です。1927年に遠藤の設計で講堂が新たに建設され、国の重要文化財に指定。低い水平面が強調されたプレーリースタイルの自由学園明日館は、見学も可能となっています。
1922年、帝国ホテル新館の予算・工期が大幅にオーバーしたため、林愛作が支配人を引責辞職、ライトも解任されてアメリカに帰国します。弟子の遠藤新とアントニン・レーモンドたちが後を引き継ぎ、新館は難工事の末、奇しくも1923年9月1日の関東大震災の日にオープン。当時の帝国ホテルの従業員は、自主的に約2000人の被災者を収容して、ブランケットやスープを提供しました。
旧帝国ホテル「ライト館」は、反対運動にも関わらず、1968年に老朽化と地盤沈下を理由に解体。1985年に正面玄関部分のみが愛知県犬山市の博物館明治村に移築されました。